バギオと日本人・ベンゲット道路

ベンゲット道路は、1898年からフィリピンを支配し、マニラに総督府を置いた米国が、夏の間の行政機能をバギオに移す為に1901年に着工し、難工事の末、1905年に完成させた全長約41kmの登山道路です。

途中で交代し着任し完成させた米国軍人ケノン少佐の名を冠して正式には「ケノンロード」と呼ばれています。太平洋戦争中米国人の名の道路名を嫌った日本軍が改名し、占領時代の3年間は道路のあるベンゲット州の名を借りて「ベンゲット道路」と名付けられました。

現在でもバギオに住む高齢の日系人達はこの名の方を好む様です。

日本人の労働移民が完成させた道路

日本人労働者がこの工事に従事する様になったのは、ケノン少佐が着任後の1903年でしたが、当時の米国ではカルフォルニア州での日本からの移民の勢力の強化を恐れた議会の日本からの移民受け入れ中止の動きが活発で、その最中の統治下のフィリピンへの日本移民の新規導入はそう簡単な問題ではなかったそうです。

難工事の完成には勤勉で粘り強く、指導者に従順な日本人がどうしても必要と強く迫るケノン少佐に押されようやく議会も承認し日本人労働移民の受け入れは実現しました。

当時はまだフィリピンへは船便の時代でしたから、移民の募集に応じたのは、九州地方の人が大半でした。

2300人とも2600人とも言われる日本人労働者達は、工事の中でも特に難工事の断崖絶壁の区間を受け持ち、600人以上の犠牲者を事故や風土病等で失いながらも工事の完成に大きく寄与しました。

バギオに現在住む日本人や日系人は「ベンゲット道路」は日本人の力で完成させたと今でも誇らしげに語ります。

その方々に敬意を表して今回はべンゲット道路の名を使います。

1905年の道路の完成によって、バギオは急速に発展し4年後の1909年には市制も施行されました。2003年には日本移民百年、2005年は道路開通百年、2009年は市制施行百年とバギオは暫く節目の年が続きます。

日本等からの労働者の受け入れで、予想以上に工事が早く終了した為に、労働移民達には別の問題が発生しました。工事に従事して1ヶ月で完成を見た人もいたそうですから、日本へ帰国する訳には行きません。

多くの人が新しい仕事場を求めてマニラ麻の栽培等で活気付くダバオに向かいました。この事は平野さんからのメールにも記された通りです。バギオに残った人達は、町の発展と農業に大きな貢献を果たしました。

悲劇の敗走、日本軍の退却路に

ベンゲット道路が再び日本との関係を強く持ったのは完成後40年を経た1945年でした。比島決戦を唱え、乾坤一擲の対米戦争勝利を目指すと60万と言う大兵団を終結させていた日本軍がレイテ島で陸海軍とも回復不能の大損害を出し、その最中交代し着任した「マレーの虎」山下将軍も「長期持久戦」に方針を転換せざるを得ない戦況になりました。

マニラの司令部を撤収し、山下司令部は1944年12月ベンゲット道路を通りバギオに司令部を移しました。1945年1月9日、私の住むパンガシナン州の風光明媚なリンガエン湾一杯に集結していた800隻以上の艦船から20万人の米軍が上陸し、パンガシナン平原の戦いが壮烈に行われました。

16万人を数えた日本軍でしたが、圧倒的な火力の差はいかんともし難く、1月末にはバギオ山麓の台地に全ての軍隊が撤退し、2月半ばには台地の陣地も放棄し、バギオに向けて退却して行きました。

その退却路となったたった1本の道路がベンゲット道路でした。全長41km高度差1400mは現在は僅か1時間余りで走り抜ける快適な山岳ドライブコースですが、敗走する日本将兵にとっては飲まず食わずで敵機の来襲を避けながらの夜間徒歩でしたからバギオ迄は1週間も掛ったと生存者の手記にもありました。

それでも、バギオに辿り着けずに多くの将兵が途中で戦死し、病死して行きました。日本人の力で完成させた栄光のベンゲット道路は、今度は日本人にとって悲劇の道路となってしまいました。

その日本将兵の退路を確保し、追走する圧倒的な米軍の前に立ちはだかったのが、私が今多少お手伝いをさせて頂いている鹿児島歩兵第71連隊でした。

緒戦のパンガシナン平原の戦いで、3大隊のうち2大隊を失い3300名の部隊は千名を割るまでの損害を受けていましたが、戦車を先頭にし、空からの援護も受けた数倍の圧倒的な米軍の攻撃を、なんとバギオが背後からの奇襲攻撃で陥落する迄、およそ2ヶ月間の間守り抜いてしまったのです。

そして司令部が撤退し、主力部隊が転進後のバギオ守備のしんがり部隊として壮絶な市街戦を展開し、多大な犠牲を払いながら、撤退していった71連隊の戦い振りは、戦国時代の関が原の戦いでの薩摩島津藩の昔を彷彿させます。

ベンゲット道路のほぼ中間点「キャンプ3」には、その71連隊戦友会建立の慰霊碑があります。断崖と深い渓谷との間の狭い場所にある慰霊碑は71連隊関係の他の2基「カバルアン」と「サンファビアン」が玉砕慰霊碑であるのに対し、この「キャンプ3」は、しっかり守り抜いたと言う誇りを篭めてひと際大きいものです。

来月の22日には、バギオ日本人会、日系人会を中心に慰霊祭も計画しています。

道路をほぼ上り切った「ジグザグビューポイント」には、戦後、反日機運の高まりから逃れ、隠遁生活を続けていた困窮日系人達に救いの手を差し伸べたシスター海野の業績を讃えた「展望台」も建設されています。

最初は、米国人の避暑の為の道を日本人が作り、次にはバギオに攻め込もうとした米軍を日本軍が阻止したこの「ベンゲット道路」に、これから「バギオでLS」を目指す日本人達が上って来るのを見守ってくれています。

Date: 2006年3月25日

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